最近「こしらえる」ということばが気になる。
漢字で書くと、「拵える」。手偏に「在」とはよくしたものです。
「つくる」より、つくられるプロセスやその丁寧さを強く感じさせることばだ。お年寄り世代までの使う言葉だとかいう意見もみるが、気になりだすとおもしろいもので、若い人が使うのを耳にすることもある。
「こしらえる」から想起するのは、おばあちゃんの手作り草餅やらおじいちゃん手製の棚とか。残念ながら、実経験ではないけれど。
言葉が時代と共に変化したり、出現したり、消えたりすることには私は肯定的ではある。でも、なくならないでほしいなと感じる表現はある。「こしらえる」、「こしらえ」はもちろん、ちょっと旧い感じのする「おいでる」、また「みえる」(おいでになる、いらっしゃる・)のような丁寧な表現、「来れる・降りれる」のような"ら"抜きじゃなくて「来られる・降りられる」などの可能不可能の表現などもそう。
母の影響か、対人関係への怖れからか、子どもの頃から割りと丁寧な言葉を使っていたらしく、友達に対しても丁寧な言葉を使っていた記憶があり、周りから指摘されたりもした。ある時期、なるべく誰にでもカジュアルなことば使いで話せるようになりたいと強く想い、そう努めたこともあった。だけれど、今はどっちもいいなと想う。
丁寧な言葉は、聞いているだけで心も耳も頭もゆーるりする感じ。語尾を「○○なも」で締める名古屋弁も「だがや~」より丁寧な言葉だとか聞いたことがあるが、おばあさんとかがこんなことばでお話しされるのを聞くだけで癒されてしまう。
「○○さん、まあすぐにおいでるげな」
「ほんとよくがんばってみえる」
「蒸かし芋、こしらえといたげたでね」
「すんごい稲光だなも」
時間がふーわりふーわり積み重ねられていく感じがするなぁ。