毎日やっていたことをやめると何ともいえない気分。申し訳ないような、後ろめたいような、解放されたような、残念なような、清々しいような、なんてことないような、モノクロとカラーがないまぜになったような気分。
8月に入ったからだろうか。こんな気分は、子どもの頃の夏休みの気分に似ているなと思い出したりする。別に、れっきとした「夏休み」という子どもに保証された公然とした休みなのだから、子どもが後ろめたさや申し訳なさを感じる必要はないのだが、そういう気持ちをどうしても持ってしまう子どもだったなと思い出す。
何故子どものころにそんな気持ちになったのか。考えてみると、父の仕事や仕事への向かい方の影響はあったのかもしれない。
父は産婦人科の開業医だった。産科というのは、お産の経過を薬でコントロールしない以上、予定日が決まっていても実際のお産はふつうに前にも後ろにもずれる。お休みの日や夜中だったりすることもざらだ。赤ちゃんは予測よりスピーディ、スムーズに生まれて来ることもあれば、何日もかかる難産になったりもする。診療時間外や休日といっていても、全ての予定はあちら次第。父本人や私達家族の都合はまったく関係ない。
父自身はそういう状態を半ば、誇っていたように私には見えた。なにしろ、周りの産科では薬でお産日などをコントロールすることはふつうに行われていたことのようだったから、或る哲学を持ってそういう不自然なことはやらないと決めて、実践するのは確かにすごいことだし、父としては大きな誇りであるだろう。親戚や知人の冠婚葬祭などもお産があるからとご無礼していた。実際そうなんだろうが、代わりに出席を仰せつかる私は、絶対顔を出せないことなんてないのに‥と思っていたような、私はひねくれた子どもだった。
「お産があるから」という言葉は伝家の宝刀。いや、伝家の宝刀というには、しばしば使われ過ぎていたかもしれない。父にとっては、しばしば伝家の宝刀を抜かなくてはならない程、日々ギリギリで産科医をやっていたのだろうか‥。なんにしても、それを言われたら、母も私も周りのヒトも何も言えないくなる。そんな環境にいるうちにいつの間にか、「休みに休んでいる」ことは、正しくないことだというような気持ちになっていたように思う。「休みも働いている」ことが立派なこと、正しいことだと感じるようになっていた
家業が家の一部で行われている家で育ったヒトはそんな気持ちになるものなんだろうか‥
実家を離れて暮らすようになってもなかなかその気持ちはなくならなかったが、結婚して、夫が相当な勢いでそういう気持ちを削ぎ落としてくれた。なにしろその思考回路のために、休みに休んでいても休めていなかったから。常に常に疲れていたからな。しかし、それくらいの精神で物事に向かうという姿勢という部分では親に鍛えてもらったということなのかもしれない。