先月のこの企画でご一緒した森直子さんは「切り花」というものについて、深く見つめ、アプローチしてこられた。2010年、「KIRIBANA」というタイトルで、北海道の大地に花を生けるという画期的な写真集を出された。確か、そのときに聞いたお話しだったと思う。根っこから切り離された切り花は、へその緒を切られて一人の人間として生まれる人間自身と似ているのだと。
今回の企画では、旧石原家住宅の庭や敷地に生きている植物を切って、生けられた。
その中に、この写真にある椿の作品がある。
この作品は一見こぶりなのだが、思いの外、量感がある。
次々と作品を空間に配置していく中で、この花作品が自然にこの位置に収まることとなった。
この部屋は、一壁面、一間弱の押入れの戸が全て縦の桟のみの格子になっている。その縦の桟に、漆が施してあるものだから、余計に縦の直線が際立つ。
我々の作品のひとつひとつ、どれもが存在感があるので、広いスペースでも一緒にしてしまうと作品同士が殺しあいかねない。
この椿の作品は特に、この小さなひとつで空間を支配するほどの性格の作品だった。
さて、会期終わり、写真をもっと撮っておきたく、
やってきてみると、椿が花を落としていた。
落ちた先は器の中の水の上だった。
そのさまがあまりに素晴らしくて、すぐ直子さんに写真を送った。
彼女から返ってきた言葉を忘れてしまったが、こんな生きていく生き方があるんだ・・というような感想だった。
落ちた花は、このまま数日、美しいまま、こんなふうに咲いていた。
一般に花というものは、花びらが傷ついたり、縮れたりするだけで、商品価値が下がったり、売り物にはならなくなるようだから、ふつうならこんなふうに椿の花が落ちたら、作品としても終わりなのだろう。
あえて花を落とした椿を使ったわけでもない、
生けたとき以来、こんな風に花を落としても、一存在として生を継続しているこの花作品に私はとても共感する。
「生命」ーそれは肉体の生き死にによって存在したり無くなったりするそれではなくーというものは、人間の脳では触れることができない。だが、こんなものに触れることができると、「生命のようなもの」の気配を自分の内側で感じられるような気がする。
彼女の花は時間的、空間的奥行きがある。
彼女の花作品と時間空間を共にし、共に過ごし、お世話をするなかで、ひとは多くのことを学び、気づけるだろう。
直子さんはそんな活動もしておられる。
ぜひご覧ください。https://www.harufds.com/premium/