いつも話しだすと長くなってしまいますので、一つの文章を二つの記事に分けました。
前回投稿の続きです。
「花を生ける」ことは、本来、その行為自身にとても深いものがあると思います。「華道」というものが存在していることからもよくわかることですよね。
「道」となれば、そこには厳しいところを通り抜けなければならないという側面も多かれ少なかれ現れてくるものです。直子さんの花との道行きにも色々な時代があったと聞いています。
古代人のお墓から切り花の化石が出てきたという話を聞いたことがありました。その時、古代人も死者に花を手向けたのではないかという論調があったかと思います。
その真偽の結論がどうだったかわかりません。もしかれらが死者の傍に花を置いたのだとして、現代人が思う「花を手向ける意識や気持ち」に似たものがあったのかどうかわかりません。
しかし、我々の親しんでいる弔いの意識や感情は全く持たずに、「花を摘んで死者の傍に置いた」だけだったとしたら、むしろその方が想像が広がります。
なぜか、一人の人類が花を摘んで、死者のそばに置いた、それを見た別の人類が、真似をした、意味や感情を持ってということでなく、なんとなくそうした、長い時間ただただそういう行為が繰り返された、
そうしていくうちに、「何か感じていることがある」ということに気づいた人類がいた、何万年と時が経つうちに、「花を手向ける」という概念が醸成された。
そして、概念が、弔うという習慣を生み出していった。
そんなこともあるのかもしれません。
私のような人間はつい、自分がそう思うのか何故なのか、そう行動するのは何故なのか、この考え方思い方の原動力はなんなのか、自分が認識しているより実はもっと他のことを想定して期待してそう言動行動しているのではないか、などなど。まるでくせや趣味であるかのようにいつも、その言動行動の理由や訳、真の原動力を探索しています。それはきっと大脳皮質ー理性的な脳の発達した人間にとってはやり甲斐があり、有効なもので、おもしろくもあり、そもそも、思いつくことなのだと思います。
文明以前の人類はきっと脳の構造も違う。我々が「心」「想い」「考え」と呼ぶものの存在を最初は気づいていなかったのではないか。
ただただ、何らかの行動をする、そうしたい、という原動力のみがあったのではないか。
ただただ、花を摘み、ただただ、動かなくなった死者の傍らに置きたくなって、そうした。
「置きたくなって」といっても、現代人の「・・したい」という感情のようなものとは違う、もっと純然たるエネルギーに近いものだったのではないだろうか。
感情が先にあったのではなく、行動を起こさせるエネルギーのみがあった。
そこに介在した「花」の存在、動かなくなった「からだ」の存在が、人類に「心の動き」を経験させたのではないか。
出会いから15年は経っていると思います、直子さんとおつきあいさせていただいてきて、
花というものの素晴らしさがそれまでよりも深く広く感じられるようになりました。
あんなにも堅牢ではない、脆い構造でありながら、水と光と生命エネルギーによって、天に向かって、或いは、放射するように力強く自らを存在させている花たち・・その彼らが、私たち人間をどんなに労わり、勇気づけ、素敵なことを気づかせてくれる素晴らしい存在か。
直子さんが花と共にやっておられることをいま、私なりに考えてみると・・
ただ「花を生ける」ということをやってみる。考えすぎてしまっても、訳がわからなくても、適当にやってみたというのでも、どういう風でもいい、やっているうちに、そこから見えてくるものは、自分のもっと素直な気持ちであったり、もっとありのままの願いであったり、等身大の自分の素晴らしさであったりする・・
本当はこうしたかったんだ、という気持ちであったり、本当はこうしたいんだという意欲であったりする・・
先の目標や外界に見える理想型を追い、近づいていこうとするのとは逆の、もともと私たちの中にあるものを解き明かし、それを表現していく、
実は、それが自分が本当は望んでいた自分自身だった、自分はこういう人間だと思っていた枠を飛び越えて・・
そんな流れを花と共に体験していくことなのではないかと私は思いました。
森直子さんによる床の間のしつらえ。部分写真。