先週の金曜日、新大阪駅近のとあるカンファレンスルームにて、花作家の森直子さんと二人でさせていただいている即興パフォーマンスの機会がありました。
直子さんと初めてパフォーマンスをご一緒したときから数えれば、もう15年にはなるでしょうか。
今回、会場がモノトーンでコーディネートされており、私も白いお洋服を着ましたので、後で頂いた写真をみてみると、お花と直子さんがとても映えて見えたのは意図なくよかったこと。
この日は主催者の方から「水」をテーマにしてほしいとというお話しいただいていました。
波の打ち寄せる音にのせ、昭和が終わらんとする感慨もあり、まずは君が代斉唱。
そして、とある山奥深くに分け入って録音したせせらぎの音を流し、脳裏に浮かび上がったというべきか、あるいは、数珠繋ぎに引き出されてくるというべきか、文章や音、メロディを発しました。
その間、直子さんがダイナミックに花木を生け込んでいきます‥
直子さんは私の音を聴き、聞き、感じ、空気を感じとりながらぐんぐんぐんと生け込んでいく、
私は直子さんの気配を感じ、変化していく花のたたずまいを眺め、集った人々の気配を感じたり、時には自分一人きりの感覚になったりしながらの、二人のパフォーマンス。
最後には、アカペラで「黄昏のビギン」という懐かしのメロディを雨の雑踏の音に載せて。
この曲はこのパフォーマンスのお話しを頂いてから、何度も頭のなかで流れた曲。雨が降ったりやんだりする黄昏から日が落ちてからのひとときの、愛しあう二人の出逢いの情景をうたう唄です。
ここ数年来、音楽のパフォーマンスを空間全体の演出の一要素とする取り組みがおもしろくて、そちらに心が集中していました。でも今回はそういう感覚からは全く離れた意識で臨めた、とても新鮮な機会でした。端的に言えば、ただただ「ライブをする」とはこういうことだったかなあと。
2月に直子さんとご一緒したときもそうで、それは、そういう依頼を頂いたからということもあるし、肩の力が抜けてきたという側面もあるのでしょうね。
何の因果か、30年以上も音楽をしてきました。なにがなんでもやりたいんだ!とがっついていた時期、一緒に活動している人たちのお陰で続けられていた時期、いろいろありました。
今の私のやっていることが果たして、「音楽」と呼べるものかどうか、私が決めることではないような気がしますが、「音楽」という要素があることには違いなく。
父とうまくいかず、家にいようが離れようが、いつも追い立てられているような、見張られているような、首輪がつけられているような、そう感じてしまうような父の振る舞いや言動が親の愛の一形態だとわかってはいても、心はいつも逃れたがっていました。そんな中で、音楽は、どうにもしようのない閉塞感にいつも風穴を開けてくれ、自分の考えや真意を自動的に結果的に私自身に明かしてくれるものだった。私は、音楽にたすけられている、そして、そんな風に考えたことはなかった私ですが、やっぱり音楽を愛してもいるんだと、改めてそんな風に感じることができました。
そういえば、あの父も、人間の作ったものはくだらん!と雄叫びあげつつ、音楽は愛していました‥。クラシックの歌曲、唱歌やロシア民謡、私が手を出してこなかったような音楽の世界を父は教えてくれました。互いのことでなく、音楽のことでは純粋に楽しい時間を二人で過ごせました。
番外編的なお話ですが、今回の会場が、親子関係に悩んでいた頃に夫と出会った場所のごく近くでした。
住みかがある訳でも仕事場があるわけでもないけれど、何度も行き来をした場所で、とても懐かしく、原点に帰ったようが気持ちたしたりも。
2月と先週のコラボレーションの機会、企画運営し、共に場を作り、そして、集ってくださった皆さま、そして、直子さんに、遅ればせながら感謝を申します。
ありがとうございました。
これは、直子さんの生け込みが薔薇の花びらを蒔くことでフィニッシュし、黄昏のビギンを歌っているところでしょうか、と。
直子さんの姿、かわいらしい・・
自分がこんな顔でみなさんの前に立てたこと、驚きもし、とても嬉しかった!